最初に,教え方やシラバスといった具体的な問題に入る前に,原点に立ち戻って,そもそも「ことば」を学ぶということはどういうことなのか,ということについて少し考えてみたいと思います.そして,その問題意識の延長上で,母語との違いとしてとらえたときに,外国語の学びがどのような特徴をもち,どういう点に気をつけなくてはならないのか,ということを見ていきましょう.この2つの側面は,それぞれ別個の問題という性格をもちながらも,根っこのところでは深く結びついており,第2の問題は第1の問題に結局のところは還元されていきます.
さて,この文章を読まれている方の多くが,文法はどうやって教えるべき? 語彙はどのようにすれば習得させられるの? 文を上手に発話させ,教室内でコミュニケーション活動をうまく展開するにはどうすればよいの? といった疑問を持たれて,このサイトに立ち寄られたのではないでしょうか.ただ,こういった疑問をもつ前に,少し考えていただきたいのは,文法や語彙といったものは,何かそれだけで真空に存在していて,ビーカーの中に入れて薬品を混ぜて化学反応させるように,それだけを取り出して加工すればよい,というようなものではないという点です.文や文章でさえ,それだけを抜き出しては,ほとんど意味をなさなくなります.
つまり,「ことば」は人間の営みの中にこそ存在し,さらに言えば,営みそのものとしてとらえるべきものだということです.トマセロは「動詞-島仮説 (verb Island hypothesis)」で,子どもは新しい動詞ごとに異なるパターンの文型を身につけていき,それぞれの動詞は最初は離島のようにつながりがない,ということを実験で示しました(Tomasello, 1992).このことは何を意味しているでしょう.
子どもは食べたり,着替えをしたり,遊んだりといった日々の生活での,大人との長い期間にわたるやり取りの中で,ことばを獲得していきます.子どもにとって,ものの名前や動詞は,それだけで個々別々に存在したり,また語彙として大人から教わったりするものではないのです.絵などを見せてその名前を教えたり言わせたりしても,それは子どもにとって,本当の「ことば」とはなりません.
例えば,目の前に近づいて来る小犬を見て,母親の顔を見ながらそちらへと指さしをして母親の注意を引き,手を引っ張って近寄ろうとする.母親の方も子犬を一緒に見ながら,「ワンワンやね,かわいいねー」と笑って声かけをする.それに対して子どもも「ワンワン,カワイー,カワイー」と自然に親子の間で交互のやり取りが成立する.このようなプロセスを積み重ねるうちに,やがて出来事全体のイメージが大人との声のかけ合いとしての音声と重なり合って,子どもの中で「ことば」が獲得される下地が作られていくのです.
そこでは,自らがその出来事を体験し,対象との具体的なやり取りをすることで,出来事への強い共感がもたらされ,その残存イメージが強固になっていきます.先ほどの例でいえば,犬をなぜてやったり,逆になぜようとして吠えつかれて泣きべそをかいたり,といった対象への働きかけ,対象との交わりはとても強いイメージとして子どもの心に残っていきます.そして,大人との共鳴が声のかけ合いをもたらし,出来事と音声は一体化した残存イメージとして子どもに形成され,子どもを「ことば」の発語へと導くのです.共感と共鳴の世界の中で,自らの具体的な体験が伴うこと,それが「ことば」の獲得にはとても重要なことなのです.(林田理惠)